図会は「房総志料」に「その地未だ考へず」とあることをもって深入りをしなかったようである。 房総志料は「上総国夷隅郡白井 中村国香」という郷土誌家が図会よりも百年足らず前に著したもので、長秋にとっては同志の先輩の著作である。先輩への遠慮が突っ込みをためらわせた感がある。 国香、長秋は東鑑やこれをベースとする太平記や北条九代記から引用している。東鑑は遅くとも14世紀初頭とのものとされているが、日記体であること自体が30年後に閉幕する鎌倉政権を正統化する目的のものという評価があるうえに編著者に諸説あって、誤記なども指摘されている。 私自身はこれらを通読していない。しかしそのような状況からすると、まず藤綱が賜った荘園の所在を東鑑が「上総国」としたのは「下総国」の誤記ではなかったと思う。そして「房総」と言えば「上総と安房」で下総は含まれない。さらに青砥荘のあった広義の葛西一帯は国香が生まれる前に源氏の系列である徳川幕府により武蔵国に編入されていた。 チェックが甘くなる要因が重なっている。 藤綱が青砥姓を名乗った時代は所名乗りの時代である。しかし、音は同じでも別の漢字を使った例は他にもある。「俺の領土」とギラギラするのを憚った上品な対応である。 「戸」が人の通行を止めるニュアンスがあるのを避けて平かさの意味合いのある「砥」を姓に使ったことが推測される。そうであれば、本文に書いた低額硬貨を落として溝攫いをした逸話が現実性を持ってくる。 京成電鉄駅と陸橋とは大型構造物なのだが、それらの名が平たい意味合いの姓のほうなのかは調べ切れていない。 |