平田明神社の記述は、図会が御城外二つ目の龍の口の項で書かれている。しかし、他の資料には登場しない。 他の資料には、家康入府以前現丸の内には宝田村があり、ここに家康家臣の馬込勘解由を住まわせた。日比谷入江を整備して親藩の江戸屋敷をここに設けるために現日本橋3丁目〜現大伝馬町1丁目に村民を移し、勘解由に名主を務めさせた。 御上意をよく理解していた勘解由は町名主の模範となり、村のまとめのために初め邸内に宝田稲荷を勧請(旧村から?)し、その後邸外に移して村の鎮守とした。というものである。 神社は日本橋本町3丁目(本文前節大伝馬町木綿店の北の街区)に現存し、商業イベントである恵比須講で賑わったことから宝田恵比須神社と呼ばれるようになっている。公式名は宝田神社らしい。 図会の齋藤家にとっては馬込勘解由は大先輩なのだが、図会にはその名は出てこない。 |