神田堀(龍閑川)の埋立ては二度行われている。 一回目は江戸安政地震の後で、中央に細い水路を残し、両側を埋め立てた。通りが渡っていた橋は撤去され、土管が通された。 埋立てに使われたのは地震で倒壊した家屋の灰燼で、埋立地は明治になっても軟弱なままで雑草がどうにか茂るだけの状態だったし、水路はいわばドブ川状態だった。 二度埋立てれたということは、掘り直されたいうことである。 東京市のシビックセンターである神田・日本橋の水路が悪臭や悪環境の発生源で良いはずが無く、安政の埋立てから30年後に再び外堀(日本橋川)から大量に導水して水質の改善と舟運の復活を図るための開削が行われた。 その後の関東大震災でも埋立てられる危機はあった。しかしこの頃神田堀(龍閑川)周辺は都心と言えども雨水をすべて受け容れるほどには下水道の整備が進んでいなかったことと、相対的に多かったビルガレキは晴海地区などの海浜部の埋立てに使われ、神田堀(龍閑川)は存置された。 そして2回目の埋立ては、明治の開削から60年後、米軍の空襲で生じた膨大なガレキの処分のために行われた。 神田堀(龍閑川)周辺には下水道の整備計画が戦前から着手されていたうえに、自動車に依る物資輸送が進み、舟運の需要が減少していたからでもある。 空襲ガレキでの水路埋立ては、ここを嚆矢として日本橋川から分岐した外堀、四谷堀、木場貯木場などで行われた。 東京市(都)と異なって東日本大震災の被災県は県外処分先を国に頼っているし、国は中央集権拡大のため環境省も総務省も処分のルール作りで地元自治体の緊急避難的な行動まで縛っている。こうして東日本大震災からの復興は、放射性廃棄物を除いてもガレキの処分が障害となって一向に進まない。 |