日本に野球を伝えたホーレス・ウィルソンは、明治4年に28才で江戸幕府が作った蕃書調所を引き継いだ大学南校(現共立キャンパスの雉子橋寄りにあった)の教官として着任した。
 着任直後から学生にキャッチボールを教え、本格的な野球場を要望していた。明治6年には三番原の一部と隣接していた園部藩と飯山藩の藩邸跡併せた区域に新校舎とグランド2万uが整備され、翌明治7年には大学南校は東京開成学校へと発展した。
 そのグランドで明治9年に東京開成学校学生チームと在日の米国領事館職員などのチームとで野球の試合が行われ、学生側が圧勝した。翌10年は学校は他校と併せて東京大学へと発展し、ウィルソンが帰任した年だが、横浜に入港していた軍艦の水兵や商船の船員で補強した米チームがリベンジマッチを申し入れて試合が行われ、学生側が勝ったとのことである(kの年の前後関係不明)。
 しかし、明治15年の東京大学錦町キャンパス図では南側に学習院が出来てグランドは7千uほどになっており、さらに明治20年の地図では現在の学士会館の周辺は今とあまり変わらない一般市街地の区画割りになっていて学習院すら形を留めていない。

 ウィルソンは2003年に130年ほど前の野球普及の功績により日本の野球殿堂入りとなった。