図会は、築土明神旧地は、「田安台米倉家の所」とここで書き、天権之部の津久戸明神の項で、天正七年に上平川から田安へ遷座、元和二年(37年後)に築土へ移されたと記述している。 神社名の由来について図会は、天権之部で上平川の観音堂に将門を祀り直した際に津久戸を名乗ったとの江戸砂子の永享記引用があるが、引用元に記述がないと書き、江戸、次戸(江戸を誤記とも)、筑戸、津久戸と変わってきたとの酒井忠昌の説を紹介している。また祭神が素盞鳴命である矛盾も指摘して、将門合祀は後世の産物と推測している。 図会には記述がないが、田安明神の氏子の一部が明神とともに外堀の外に移転してJR飯田橋駅北部に住んだ(元船河原町)。その後地名を引っさげて現在の市谷船河原町に再度集団移転し、空襲による移転後も市谷船河原町は九段の築土神社の氏子区域になっている。 図会以降、ペリー来航を機にした防衛力増強のため「米倉家の所」は歩兵屯所となり、陸軍用地を経て靖国神社になった。築土神社は米軍の空襲で焼失して九段北の世継稲荷に合祀され、330年後の田安復帰を果たし、サイトには江戸砂子の説を書いている。 隣接していた筑土八幡神社は、筑紫の宇佐八幡の宮土により創建したのが神社名の由来としている。別の資料によると当初の移転先の隣の揚場町の軽籠衆と祭礼を巡る確執があったようで、これが市谷移転の動機ではないかと私は勝手に推測する。そして祭礼の混乱を避けるために、市谷船河原町にも別宮(もしくは日常の遥拝所)を設けたものが現在も祠然として残されているのではなかろうか。 私は、「築土」は搗き固めた造成地一般を指す言葉で、塚や土そのもを限定的に指すのではないと思う。つまり、ともに神社名は確定的な証拠にはなり得ないと考える。神社名よりもより後世の下記の事項をどう説明するかが重要な気がする。 図会は大巳貴命(大国主命)を主祭神とする神田大明神の項で、将門がを祭神とした江戸神社が慶長八年に駿河台に移された後、湯島に元和二年に移されたと書いている。天正七年から慶長八年までの24年間上平川に将門の霊が残っていたと考えるのが素直だと思う。 |