品川区のハザードマップを見ると、目黒川の氾濫被害想定区域は、東海禅寺の西側から鮫洲に向けて広がっている。氾濫被害想定は地形を最大の要素としており、この付近で古目黒川は鮫洲方向に向かって流れていたこととを示している。鮫洲の由来が佐美津(白水=真水)や砂水だとすれば、それは古目黒川の伏流水が塩水だらけの浜に湧いていたものと考えられる。 しかし、有史以来の目黒川はずっと北(左)に偏っている。本文でも書いたように昭和の初めまでは現在よりもさらに左、海岸に平行に北向きに流れて海に注いでいた。 本篇横浜中心部の節で触れた横浜の中村川、詳しくは触れなかったが揺光之部の市川から船橋に掛けての古利根川の砂州、図会の範囲外の木更津の小櫃川いずれも東京湾の時計回りの潮流に押されたように河口部が左へと曲っている。 これらは陸から来た水流を潮流が押すからではない。潮流に負けない強い力で絶え間なく沖出しをしている大河川が運んできた土砂は、そのまま潮流に預けられる。預けられた土砂は、その密度と潮の速度の兼ね合いで順次沈殿していく。潮流に全てを押し付けるだけの力のない中小河川の河口部でも川の水の受け容れに伴って潮流の速度は低下し、その河川が運んできた土砂を含めて堆積が進む。堆積で河口が狭くなった川の流れが潮の流れに逆らうほうに向けばなおさら短時間に堆積が大きくなるので、結果的に潮の流れに従うほうの流れが残され、陸から来た水流を潮流が押したかのようになる。 ところで、地名「品川」の由来が「下(水)無し川」であるとの説は、対の「上(水)無し川」由来の「神奈川」とともに酒井忠昌の説で、図会はここでも注記している。上下対になっているからこそで、単独の場合は「水無川」や「釜無川」になっている。 では、下(水)無し川はどこにあったのだろうか。有史以来の目黒川が品川だとの説は、流域の広さから「水無し」状態が認識されない目黒川ではない。とすると、次の二つの仮説が考えられる。 @ 「下(水)無川」」は、鮫洲方面に向かっていた古目黒川で、流路変更後水無し化していた。日本人が地名を使うようになった頃までは痕跡があったが、その後の耕地開発や市街化で消えてしまった。 A 上(水)無川と同様の水無しが常態化している川が御殿山から海へ流れていた。これを下(水)無川と言ったが、目黒川の流路変更が進んで流域占奪されてしまった。 @の弱点は、目黒川の流路変更が余りにも大きいことである。砂州形成による流路変更は砂州の大きさに比例している。ここの場合、上古街道(天龍寺前)から東が砂州でないと説明できないほどの変更である。またそんなに大きな砂州ならば、古目黒川の痕跡をも呑み込んでしまい、地名になるはずがない。 Aの弱点は、地名を使うようになっての流域占奪ならば、地域にとっての衝撃は大きく必ず古文書などの記録があるはずである。今までそのようなものは発見されていない。 両者を折衷した「御殿山からの小川があり、それを目黒川が流域占奪した。いずれも有史以前のことである。地名になったのは上(水)無川のように時折水が流れるのではなく、異常な大雨の時だけだった古目黒川の痕跡である。」が立証されるためには、少なくとも推定痕跡位置の地盤データとして「礫層の上の土石は圧倒的に有史以降のものだ」という結果が必要である。 |