私は東京オリンピック開催の年、東急目蒲線の西小山駅と洗足駅の間の下宿に引越した。歩いて10分余りの武蔵小山アーケード街へでかけると、手前に幅広い道路ができていたが殆ど交通が無い。丁度大学での専門コースを都市計画に選んだ時期でもあって不思議に思い、下宿のおばさんに聞くと、三宿から大井町までの大幹線道路ができると教えてくれた。当時洗足駅南では環状七号線が工事中だったから、より都心に近い武蔵小山駅南のこの道(都道420号線)が先に完成すると思っていた。 大学を出てもこの下宿に住み、勤め先も建設省の都市計画に関係ある部署だったから、都道420号線には関心を持ち続けていた。 @ 当時都知事は、辣腕副知事鈴木俊一を擁した東龍太郎だった。東は大学時代の漕艇選手としての活躍と専攻の医学とでスポーツ医学の泰斗となり、IOC委員としてオリンピック招致活動に貢献したので、自民党に担がれて昭和34年の知事選に出馬した。革新側からは、第二次大戦前外相をし、戦後の敗戦処理外交に尽力した有田八郎が統一候補として擁立された。第一次安保闘争も始まっていた保革伯仲の時代、有田氏に対する怪文書作戦が展開され、東氏は知事になった。しかし、知事としてオリンピックを迎えるためには昭和38年の選挙にも勝たねばならなかった。 三島由紀夫は、第一次安保闘争が終った昭和35年秋に怪文書の一部を真実と認めたような「宴のあと」を発表し、我が国最初の大型プライバシー裁判が始まった。裁判は長引き、革新側が別の統一候補を見い出せないまま再度有田を擁立して負けた後に有田側勝訴で終わった。オリンピック聖火ランナーが日本中を駆け巡っている最中であった。初めての判例とはいえ、賠償額はわずか80万円、翌年三島が支払わないうちに有田は死去し、遺族はなぜか和解してしまった。 A オリンピックに向けての突貫工事に伴うトラブルや水不足問題など積み重なってきた中、都議会自民党が議長の椅子を贈賄競争で決めていたとのいわゆる「黒い霧事件」が昭和40年に発覚した。元来政治家でなかった東知事に収拾力はなく、議会の解散と選挙が行われ知事与党は少数派になってしまった。晩節を汚すリスクのある昭和42年の知事選に東知事が再々出馬はずはなく、すでに都議会に多数の敵を作ってしまっていた鈴木副知事も、時期到来を期して万博協会に転出してしまった。 B 昭和42年の知事選で自民党は革新の一角の民社党を抱き込んだが、二つの党の矛盾した政策のせいか擁立された学者の松下氏の演説は何を言っているのか意味不明だった。社共擁立の美濃部亮吉氏は、言葉づかいは馬鹿丁寧だが実行を国まかせのものが多く、「一人でも納得しない方がおられたら事業は強行しません」とサボタージュ宣言をしていた。しかし、父君の達吉教授が天皇機関説で著名であったから、年配層への浸透も良く、楽勝した。国全体の成長期にも恵まれ2期目には得票数3,615,299という空前(現在まで絶後)の数字を残した。 知事のサボタージュ宣言が最も影響したのが道路整備である。オリンピックに向けての事業で交渉不足だった点があったのは確かだし、加えて交渉に疲れきってしまっていた都の担当職員も知事の発言を受けて期限を気にしなくなっていった。決して反対でない地主などの中には少々反対運動があったほうが、補償(買収価格)が大きくなると考える者(いわゆるゴネ得)もいた。知事の言葉を最大限に利用して日本共産党はもめ事のある地区で勢力を伸ばしていった。 オリンピックに向けての第二京浜拡幅を見知っていた戸越公園周辺のこの地区では、都道420号線の反対が根強く日本共産党のポスターが選挙のたびごとに増えた。丁寧な診察の見返りとして患者OB会を組織し、選挙の集票マシーンとして機能させるシステムの病院もこの地域で生まれた。 こうして今や当時争った世代の孫の代になっても都道420号線は未完成の姿を曝している。 |