遠州で家康の家来になり、1610年に鈴木から改姓した木原吉次は家康の江戸入府3年前に亡くなっている。家康に随行して江戸に来た吉頼は、新井宿村に440石で天領領主として封じられ、初代の墓を景勝の地の桃雲寺に設けた。
 義民事件の発端は1673年の凶作だから、木原家は3代目か4代目である。440石では不満足だったのか私財を蓄積したかったのか、お抱えの検地役人が木原氏の気を惹こうとしたのか動機は不明だが、 畦畔込みや縄緩み測量で年貢を引き上げた。
 凶作が発生しても聞く耳を持たない領主とその不正手段を訴えるべく手はずを整え江戸城近くに待機していた6名は、村内からの密告で捉えられ木原氏別邸で斬首された。趣旨不明で呼び出された村人は、空き俵に死体を詰めて帰り、ほとぼりの冷めるのを待って表に別名義を書いたいわゆる「伏せ墓」を作って祀った。
 大正に至り菩提寺の善慶寺と地元有力者の古文書から実話と確認され、それまで「六人者のこと」だったのが「義民六人衆」と言い換えられた。さらに昭和47年の山門周辺整備に伴い、伏せ墓の移設をしたところ、言い伝えと古文書通りの埋葬が確認された。

 「親苦労する。子楽する。孫乞食する。」「唐様で書く三代目」は市井の者の戒めの格言である。権力者も初代は授権を認めるほどの努力や実力を周辺が実感しているので、得た権力の座は安泰で、二代目は同じ程度なら悶着を起こすことも無かろうとなる。しかし三代目ともなると本人が初代の努力や苦労を実感していなので周囲との間に必ず雑音を生ずる。
 大組織にになるとその雑音の根源が自らにあることが認識できないような体制が二代目までの間に出来上っていることが多い。現在も大会社や官公庁にそんな例はいくらでもある。

 国レベルになると、権力者の固定を防ぐ仕組みがいくつも設けられている。このせいかなんのための権力なのかを認識しないままその座に就いているのではないかと思われる人物も少なくない。せめて200年以上後に義民六人衆を復権させた新井宿の人たちの熟慮遠望や木原家の課題を学んでほしい。