川崎渡田で登場した新田神社は、関戸や分倍河原で鎌倉勢を破り、引き潮に乗じて鎌倉を攻め滅ぼした新田義貞が祭神で、こちらは、その子義興が祭神である。
 太平記によれば、義興は鎌倉攻めの際に父を補佐し、並はずれた器と知略は後醍醐天皇も認めていた。妾腹だったので表に出ず父の死後越後に暮らしていたが、関東の同志が義興のもとに結集する動きが高まってきた。足利家としては、なんとか抑え込もうとしたがうまくいかなかった。そこで鎌倉攻めの頃の部下で足利側に身を移した竹沢右京亮を獅子身中の虫とすべく送り込んで謀殺を図った。
 まずは、前節の女塚の由緒である。竹沢は少将局という都育ちの若い女を近づけ、女の家での宴席で義興を討とうとしたが、情が移っていた少将局が凶相が表れていると義興に書き送って中止してしまった。怒った竹沢は、無頼人を使って彼女を殺して野辺に放置した。里人が哀れんで塚に葬ったのが女塚であるとのこと。
 次に、義興に鎌倉行きを勧めて多摩川で底に穴栓をした船に乗せ、途中で船頭がわざと櫓を落として水中に入り、栓を抜いた。岸で伏兵が鬨の声を上げ、抗いようのないことを悟った義興主従が自害、刺し交えをして果てた。
 以後、岸で待ち伏せた江戸遠江守が下手人の船頭の船で多摩川を渡ろうとしたとき雷鳴が轟いて嵐が起こり、迎えに来た船は転覆して船頭が死んだ。これを目にした江戸遠江守は恐怖のあまり狂死し、そして新田残党の処分を準備していた畠山氏の入間の館と街は落雷で一夜に灰燼となってしまった。さらに矢口の渡には夜な夜な怪火が現れるようになった。人々は主従を新田大明神十騎社として祀り、祟りの鎮静化を図った。
 客観的には支配者の人倫に悖る行動が社会不安を引き起こしたことの太平記的表現と言える。また、信心が深かった時代、宗教家自体が社会を落ち着かせることを兼ねてある程度脚色したような気もする。
 などと書くのはとんでもないバチあたりか。