「要島」は、現羽田空港の最西部1kuほどの区域の地名であった。要島弁財天は多摩川下流地域で最古参の神社で、現在の弁天橋東の赤い鳥居が建っている付近にあった。
 穴守稲荷は、江戸時代に要島の東部に新田開発をした名主の鈴木氏が私的に設けていたものであるが、明治時代に公認されて一般に開放された。その東の埋立地には競馬場が設けられて穴狙いを始め種々の穴に願をかける参拝客で賑いを増し、京急は川崎の大師線よりも優先して、しかも当時珍しい複線で参詣客を運ぶ路線を整備した。
 しかし、太平洋戦争後日本を占領した米軍は、この要島の市街地に軍用空港を設けるとして48時間での強制退去命令を出し、すべての建物を瓦礫として処分した。悪名高い日本軍でも占領地行わなかった市街地の破壊行為であるが、原爆投下ですらやむをえないどころか正当だとしている立場からすれば2日間も猶予を与えた恩恵に感謝すべきであるとの発想だろう。唯一残されたのは、命令を受けた日本の建設会社が「祟りがある」と言って手を付けなかった旧穴守稲荷駅前の赤い鳥居だけであった。
 旧空港ターミナルの駐車場に残されていたこの鳥居は、強制退去させられた人たちの団結のよすがとなり、反米感情を持つ人たちも闘争のシンボルとして扱ってきた。本殿が無いにもかかわらず、日本の航空会社が安全祈願をするなどが続いた。平成になっての空港施設の拡張整備の際にも廃棄ではなく、要島弁天跡地に再建存置された。反米闘争のグループが設置したと思われる現地の案内板は、闘争の成果として書くことに腐心し、弁天には一言も触れていない。