増徳院について図会は、洲乾弁天の別当で同所にあると書いている。 両社寺のあった横浜村は、砂州の上のやせ地を主体とする寒村だったから、一社一寺を支えるのが精一杯で、氏子と檀家は同じ顔触れ、弁天も鎮守を兼ねていたとしても不思議はない。 そんな環境が図会以降急変するのは、ペリーの上陸である。最初は遠慮がちに浦賀で済ませたが、二度目には本牧断崖の美しさが気に入り横浜村に上陸する。その際、病死した水兵の墓地を「海を見せてやりたい」との条件付きで要求した。紅毛青眼の形相を「毛唐」と蔑んでいた時代、わざわざ他の地域に話を広げる余地はなく、横浜村で現在の外人墓地に至る斜面を境内としていた増徳院が受け容れるしかなかった。 アメリカとの関係はその後和親条約の付随文書で整理され、ペリー艦隊の水兵の墓は下田に移った。しかし一旦引き受けた実績から、生麦事件の犠牲者(イギリス)など他の地域での客死者までも引き受けることになり、隣に「毛唐」の墓が出来た檀家は面白くない。増徳院は土地を提供するから各国で管理するよう要請したが、覇権を争って日本に来ている各国がまとまることはなかった。日本の民法に基づく無宗派の財団法人が管理主体と決まったのは40年も後の1900年だった。 この間横浜市内で最上位の真言宗の寺格を得たり、前節の平楽に日本人専用墓地を確保するなど寺は隆盛期を迎える。表立ってはいないが、時の政府の後ろ盾がなかったとはいえない。 |