米軍は、終戦前に占領した沖縄を別とすると、民有地の接収はここ本牧(終戦直前に空襲で焼け野ヶ原になっていた)が最も早く、ミズーリ号艦上での降伏文書調印の翌日に文書が発せられている。
 目的用途は住宅地だったが本当の目的は不明である。当初はいわゆるカマボコ兵舎が主体だったから後述する根岸飛行場の基地化を計画していたのかもしれない。しかし、横須賀基地、厚木基地、相模原基地いずれへも短時間でアクセスできる場所ではなかったから一般生活施設が設けられたり、出動することの少ない進駐軍のキャリア向け住宅地になった。
 本牧住宅地は37年後という1世代以上の接収期間で、多くの地権者が権利を日本政府に売り渡すなどし、返還されたときは、国有地と民有地が混在する区域になっていた。日本住宅公団から転じた住宅都市整備公団は、新公団最初のビッグプロジェクトとしてここの区画整理を行った。事業期間は丁度バブル経済期と重なり、「民活」の旗印の下、三井不動産などの参画を得ていくつもの実験的な街づくりを行った。
 散在した国有地は、区域北部のマイカル本牧やその東のパークシティ団地の用地に集約換地された。また、本牧神社の従前地も北部で高い評価を得たので、従前地の数倍する広さの換地を和田山の反対側(南)の山懐に受けた。

 一方、根岸住宅地区接収は少し複雑である。現在の根岸森林公園の場所(根岸住宅地区の東側、増徳院南方)には、日本競馬会(現日本中央競馬会の前身)が明治末から主要レースを開催してきた根岸競馬場があった。終戦の2年前に帝都防空の臨時飛行場にするとして帝国海軍が買収したものの、飛行場としての整備も果たさないまま米軍に接収された。戦後間もなく競馬会は買い戻しを国に申し出たが、米軍は本牧と根岸の住宅地居住の軍属のゴルフ場等として利用しており、買い戻しは本牧住宅地の返還の10年前になった。
 根岸住宅地区は、このゴルフ場等の西に連なっており、キャリア住宅用が本牧だけでは足りないとして2年後に拡張接収された。注目すべきは競馬会の買い戻しの動きと併行していることである。
 本牧返還より早くゴルフ場等が返還されたことは、利用者であるキャリア軍属が減少したことを示唆している。結果的に本牧を返還してのキャリア住宅は根岸住宅地区の300戸に絞られた。
 現在根岸住宅地区の返還条件は、池子弾薬庫跡(本文金沢八景駅西部の地図で「池子弾薬庫」と表示した場所)での385戸(米側は第一次分の合意に過ぎず、当初要求700戸との差は日本側で引き続き用地確保と費用負担をすることとしている)となっている。
 根岸住宅地区の返還は近いのだが、森林公園ができたころまでは自由に出入りできた(その理由は次の段落で)が最近Off Limitが厳しくなっているようだ。加えて代替要求や思いやり予算での整備形態をみると、米軍住宅地区の目的の変節が感じられる。しかし、公表されている日米合意文書等を見ると目的は抽象的で、占領目的だったのをすり替えて米軍が占領経費を回収しているように見える。

 東京周辺の米軍施設は、米ソ冷戦などと言う国際情勢とは無関係である。最大の目的は日本の反米・反占領行動をけん制し政府に圧力を加えるものであった。彼我の圧倒的な立場の差を見せつけて抵抗意識を萎えさせる目的で、当時の米国でも最上級の住宅地を造ってOffLimitを緩くしたと考えられる。
 このことは当時の米国での住宅地の整備状況や建築規制と比較すると良く判る。20世紀初頭から米国の都市計画では「Pubulic Nuisanseの排除」を目的とする建築規制区域を設けることが始まっていた。例えば区域内では、日用品店、クリーニング店や教会等居住地に不可欠な施設を除いて一戸建てあるいは平屋建ての連棟住宅以外の建築を禁じ、その敷地規模は最低1/4エーカー(約1000平米)でなければならないといったものである。
 表面的には申し分ないことのように見えるが、この規制に耐えられるのは白人のセレブだけであった。都市運営上もそのような居住者が多いほうが楽だったから黒人比率が増加しそうな米国南部寄りの州で大いに活用された。しかし、キング牧師の公民権運動が盛んになって「実質的に人種差別に繋がる規制は違憲」との判決(1960年代)が出て以降既成の区域で敷地が細分化したし、新しい計画のPRは見られなくなっている。本牧・根岸ので生活したキャリア軍属で本国に帰ってより豊かな住生活を送った者は少ない。