権太坂の名は、正月の関東大学箱根駅伝の難所として広く知られるようになった。往路2区の上り坂であり、復路9区の下り坂で、本文で分岐した学校前をそのまま東進して下るとスピードが出過ぎるほどの急こう配の先で現東海道の「権太坂上」交差点に出る。直ぐ右に同名のバス停もある。この地点は地形上は坂上でなく、右へ300mあまり行って坂が消える。
 交差点の信号が「権太坂上」となったのはバス停の「権太坂上」がすでにあったからで、バス停が「権太坂上」となったのはこの地区の地名が「権太坂」だったからである。つまり、「権太坂」と云う坂は現東海道には無く、この地域の国道を管理している国土交通省横浜国道事務所のサイトにも登場しない。
 江戸時代の他の紀行文で「権太坂は二段坂の難所」とされている。本文に書いたような権太坂単独のことか、シナノ坂を含めてのことかはあるが、行き仆れが珍しくなかったため投げ込み塚が設けられていた。名所図会としてはそこまで記していないのは当然と言えるが、難所としての概念は両坂を包括していたと思われる。
 箱根駅伝の実況アナウンサーが、難所イメージから誤って「権太坂、々々」と叫ぶのもやむを得ないのかもしれない。