猿島連絡船の発券所には、写真の島の年表が掲げられている。
図会の記録についてコメントされていないのは仕方ないとして、ペリーの来航(1853・57)よりも前に浦賀付近での外国船出没事件があったことが幕府がここを台場にした動機であることに触れるべきだろう。蛇足だが、ペリーの当初来航時に浦賀副奉行を装って米国側と交渉して急場を凌いだ中島三郎助をこの地に任じてあったのも、それまでの事件に精通していた彼を見込んでのことであったと私は思う。
幕府(安政大地震まで)→帝国海軍→陸軍(関東大震災まで)→帝国海軍→米軍と猿島は100年以上に渡って軍用地であり続けた訳だが、米軍接収中に海水浴場が開設公開された経緯も知りたいところである。米軍に余裕ができたタイミングであったことは確かであろうが・・・・・。
さて猿島の規模はなぜ図会の記述と異なっているのであろうか。
A:そもそも図会の記述が間違っているのではないか。
ここまでも図会の間違いはあったが、図版に描いているものについては大きな間違いはなかったので簡単には結論付けられない。
ところが、ここでの記述は簡略で、まるで準備メモのようである。とくに島については、図会全体を通じて浅瀬だけで離れていて明治になって直ぐに橋がかけられた次節の野島と揺光之部の妙見島を除くと、既往の文献の引用だけで済ませている感じが無いわけではない。
せめて近くまで行って(さらに島に渡って)いれば、日蓮上人の避難を導いた白猿が島の名の由来と言う地元の伝承(や上人が隠れた洞窟や軍用地になるまであった春日神社など)を記していると思われるし、島の形状が南北に長いことも教えられた(判った)と思われる。
B:図会の刊行以降に島の形状が変わった(変えられた)。
安政、関東の二度の大地震で島の崖などが崩れた記録がある。でも島が半分になるほどの事態だったら対岸を高波が襲ったろうがそのような記録は見当たらない。単に私が見つけられないだけかもしれないが・・・・・。
地震ではなく人為によるもの、つまり軍用地として一定の強度を必要とする以上、地震で崩れそうな部分はもちろん艦船の航路を広くするために積極的に削って対岸(現米軍基地の泊町など)の軍事用地の埋め立て拡充に用いた。軍事機密であるから記録が無いのは当然。
このうち航路の障害除去は、裸島を含む数か所の猿島周辺の岩礁や次節の烏帽子島が爆破されるのを目撃した人はいたようだが軍事機密として口外を禁じられていた。
横須賀市のサイトでは「東京湾唯一の独立自然島」としているが、人の手が相当加わっているものであるようだ。
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