松雲禅師は22歳で仏門に入る前佛工だったとの説も有り、大分中津の羅漢寺の石像を見て木像造りを発心したものの、施しが少なく遅々として進まなかった。しかし、蔵前の商人の応援を得て造ったものが綱吉の生母桂昌院に認められたことをきっかけに支援が集まり、本尊や十大弟子像を含む536体が完成し、幕府から広大な土地を与えられた。仮堂に保存して本工事の準備中に松雲禅師は没し、たちまち寺は荒れてしまい、中興の象先禅師の努力で堂宇が整ったのは松雲禅師没後15年である。 以上の経緯を図会は書き、堂宇を埋め尽くした木像の壮観な様を描くとともに大阿羅漢、十大弟子、十六羅漢の526の名を漏らさず記している。(その一覧はさらにサブページで) 梵語の名を表音したものはさておいても表意している字の名を眺めていると、一つのことを成し挙げた人(行禅で悟った人=尊者)の顔立ちを表そうとして鑿を揮った松雲禅師の心意気が伝わってくる。現存する305体以外の221体を現代に復活させるために、失われている木像の名の意味を説明するなど寺にさらに努力をして欲しいと思うのは私のほかにも大勢要居ると思うのだが・・・・・・。 |