現在の新幹線の基礎になったのは、昭和10年代に大陸政策の一環として計画されたいわゆる「弾丸列車」である。五島慶太率いる目黒蒲田鉄道(後の東京急行電鉄)は、東京都心からの弾丸列車ルートの有力候補と言われた大山街道沿いに着目し、二子玉川園と集客用の路面電車を経営していた玉川電気鉄道を買収するとともに、多摩丘陵の権利取得を始めた。しかし、神奈川県や横浜市の要請でルートは東にシフトし、かつ戦局の悪化で弾丸列車計画は頓挫して敗戦を迎えた。膨大な多摩丘陵の土地を遊ばせるわけにはいかず、開発しても玉川電気鉄道から引き継いだ路面電車で軽く十万人を超える通勤客を輸送することは不可能であった。 このため、輸送需要への対応を目黒蒲田鉄道時代のNo2路線の大井町線経由とする多摩丘陵(田園都市)開発計画を作って、溝の口以遠の新路線の工事と沿線開発を進めた。この開発計画上不可欠である大井町線は、東京オリンピックの前年に田園都市線と名称を変えた。東名高速道路と首都高速道路の接続のため廃止された玉川通りの路面電車に換えて高速鉄道規格で「新田園都市線」の認可を得るに伴い、再び目黒蒲田鉄道創業時の名称に戻ったのは16年後である。 大井町線は東京と横浜を結ぶ主要道路を地上踏切で次々と分断していたことに加え、駅間が短く都心通勤用として時間が掛かり過ぎる問題があった。これらの解決のため、踏み切りの立体化と乗換駅だけに停車する急行の設置とが計画上も重要事項とされていた。 新田園都市線が通勤輸送の主力になったが、大井町線の役割が終わったわけではなかった。いつのまにか名称から新を取った田園都市線の通勤時間帯には「一部列車へのお客様の集中」が連日発生して正常運転日のほうが少ないという事態が起こった。集中の対象である急行電車を通勤時間帯には走らせないという奇策とともに、ベイエリアへの通勤を大井町線経由に誘導することを東急は進め、元来急行緩行の区分など必要が無かった大井町線にも急行が登場している。 |