1772年(明和9年)早春、行人坂大円寺から発した火事は、南西の風に煽られて北東に向かって飛び火を繰り返し、いくつもの短冊型の区域と本郷台地一体を燃やしておよそ25km先の南千住にまで達した。あまりにも火元が遠かったのと年号をかけて後に「明和九(メイワク)火事」と呼ばれた行人坂大火である。
 寺の僧の不始末の責任から、大円寺は再建を許されず図会の図版には堂宇の影はなく、「今は亡びたり」と記述している。
 図会が「五百阿羅漢」と書いている石像群は、現在の説明板にあるように、出火前に大円寺が目黒川の架橋工事などの犠牲者(無断架橋で刑死したという名主の権之助も含む?)のための鎮魂の納仏を受け容れていたのが契機で、行人坂大火の後閉鎖中の寺域に行人坂大火の犠牲者の鎮魂納仏が進んだというのが実態のようである。
 江戸町民の心根を理解した幕府が大円寺の再建を許したのは、明治維新の20年前のことである。江戸名所図会は大好評で版を重ねていた時期であるが、改訂版は出していない。
 大火と言えば、八百屋お七の話が出てくる。1682年の大火(駒込大円寺から出火:天和の大火)で彼女が仮住まい先で親しくなった寺小姓(名を吉三郎と言う説があるが真偽不明)への恋の炎は復興した家へ戻っても納まらず、火事になればまた逢えると我が家へ放火した。火付けは死罪だがまだ16歳になったばかり(数え15歳までは不問)なので、奉行は「まだ15だろう」と温情を懸けようとしたが、きっぱりと生年月日を述べて火炙りになった。この事件の元の大火ということで彼女が避難した火事を「お七の大火」というようになった。
 行人坂大円寺の目黒川寄りの明王院を栄えさせた「西運」は、吉祥寺から行人坂大円寺に移ってきた吉三郎で、修行中隣の荒れ様を見かねて住職になり念仏堂を発案したという説がある。図会は、念仏堂の発願は西運と記すに留めている。