ここにあった御焔硝倉は、前田藩の厳重な管理のもとなっている白川郷などの世界遺産になっている合掌造りと深い関わりがあった。合掌造りに住む大家族が日々排泄する糞尿は、定期的に集められて藩の爆薬工場に運ばれていた。
 硝酸を大気から生成する方法が確立するまでは性能の良い爆薬の殆どは、鳥の糞の化石である硝石に大半を依存していた。二十世紀初頭チリが世界の五大国に名を連ねていたのは、いわばウラン、プルトニウムに等しいチリ硝石の生産国であったからである。
 徳川幕府が鎖国政策を採っていいなかったら、白川郷は存在しなかったであろうといわれる所以である。幕府と前田藩の中枢しか知らなかった国内最高水準の爆薬の保管が、幕府関係者の江戸屋敷などが周囲を固め、「霞が関」(=見えない関所)と呼ばれたここで行われていた。
 しかしペリーの来航など外圧が強まってくると江戸の防御体制強化のための武士の訓練場確保と爆薬の保管量増強とが求められ、周囲が住家密集しているここは前者向けとなり、永福町の崖地を新たな弾薬庫とした。つまり明治政府が青山練兵場として周辺を収用する前に徳川幕府によってその素地は作られていたともいえる。
 永福町の弾薬庫は関東大震災後、都心からの移転する寺の用地に充てられ、弾薬庫は多摩丘陵に設けられた。米空軍は永福町の寺の伽藍は弾薬庫を偽装していると疑って集中的に空襲した様子がある。