「笄」という字は常用漢字に無い。当用漢字でも無かったので、竹冠の下を4画で書くのは俗字で公式には竹冠の下に「チ」と「干」が並ぶ字が使われていた。パソコン用のJIS文字として公認され、本文に書いた案内板にも使われている。 「こうがい」は実用されなくなって久しい。豊な黒髪を頭上で束ねて形を整えるために差し込んだ幅の狭い竹べらのようなもので、中国では冠位を表す帽子を被る時には男性の必需品であったし、女性の髪形がファッションになってからは「笄」の中でも女性用装飾品の意味合いが強い「簪」の字も使われた。 文字とともに日本に伝わり、男性用も兜を脱いだ時の見栄えを良くするためにデザインされた武将用や烏帽子を留める公家用のものが遺されている。なお簪は「髪刺し⇒カンザシ」と訓じていることはお気付きのとおりである。 用途は広がり、頭が痒いときに掻いたり、ものとものとの間にできた隙間を暫定的に埋めるためにも使われた。素材は竹に限らず高級品は象牙や銀が使われ、金属製のものには「鉤匙」の字があてられた。 将門の乱のきっかけとなった六孫王(源経基)が刀と鞘の隙間に使っていた笄を関守に与えた(将門の介入から逃れるため?)。ここの地名のおこりは、その関守がこの辺に住んでたとか関所があったとかでそれが川の名になったという説とそのバリエーションが江戸時代すでにあった。 図会は笄関連諸説の存在と鸛ヶ谷(コウガヤ)(コウノトリの谷)説を紹介したうえで、16世紀の北條家の古文書の「江戸領国府方」を引いて国府ヶ谷なるべしとしている。 明治初期の市町村合併の際に、長谷寺周辺から右図右下の笄小学校周辺までの区域が合併して「麻布笄町」と名乗り、昭和40年代前半まで続いた。笄小学校の通学区には大使館が多く、漢字検定一級のこの字を読みこなす大使館関係の外国人子女がいたりする。 |