私がこのキャンパスに通ったのは、東京オリンピックの2年半前から2年間であった。
 当時は、駒場駅と東大前駅は別の駅で、東大前駅の出口は現在の東門のところだった。正門へはここから斜めの道が付いていた。 現在数理科学研究棟の建っている東門の際はキャンパスの外で、現在の矢内原公園との間に東西に走る一般の道路があった。
 つまり道路に沿ってキャンパスと一般市街地を隔てる生垣があり、そこに人がやっとすれ違えるだけの狭い門があった。 この門を入ってそのまま北に進むと右に研究棟と三つの学生寮の入口が並んでいた。かつてこの門は無く、寮生などが正門へ迂回せずに 駅へ真っ直ぐな線上の生垣を壊して出入りしていたとのことであった。当時の矢内原忠雄総長は学生の不法行為に厳しかったが、 この出入りは容認し、コンクリート造りの袖壁を設置して生垣がさらに壊されるの防いだ。そのためこの門は矢内原門というのだと教えられた。
 三つの学生寮の東に寮食堂があり、その更に東に蛇池があったのだが、当時名前がどうだったかは覚えていない。しかし、保健体育の講座の担当だった 当時の東大野球部監督の神田順治(助?)教授は、「あの池は湧き水で温度が低いから、入らない方が良い」と言っていた。 リンク写真に付記した「小学生は・・・・・」も同趣旨かも知れない。しかし湧水量の減少のせいか結構汚れてもいる。
 東大前駅(現東門)から南の商店街へ下りる階段はそのままだが、当時その下にあった本屋や食堂はいずれも消え去っている。当時この本屋の店頭に、 この道でさらに南の淡島街道に出たところにある高校に通っていた吉永小百合のブロマイドが所狭しと並べられていたのを覚えている。