図会の記述では、「弦巻郷」に「世田谷八幡宮」(以下「弦巻」と略す)があり、豪徳寺より「西方の岡続き」に「宮坂八幡宮」(以下「宮坂」と略す)があるとしている。
弦巻は八幡太郎義家の勧請で、宮坂は吉良氏が鎌倉鶴岡八幡宮を真似て造営した(前者勧請から455年後)が勧請のことは(義家勧請説もあるが疑問が少なくなく)不詳と書いている。なお、祭礼はともに八月十五日と書いている。 図版では、弦巻を「世田谷八幡社(せたがやはちまんのやしろ)」と記述と微妙に異なるタイトルのもと半紙単独で描き、境内に祀られている弁天、天王・八まん(?)・山王、疱瘡神を付注し、神主宅も示している。 宮坂については、豪徳寺とその周辺を半紙2枚で描いている中に小さく「八まん」と付注されているだけで、現存する境内の小社などは示されていない。 弦巻の図版に描かれた地形は、境内に向かって上がっており、現状では弦巻の跡地よりも宮坂のほうがよく似ている。また、本殿と弁天の配置は、宮坂の現状に酷似している。このため、弦巻の図版は実は宮坂を描いたものではないのかという疑問が沸く。 しかし、義家勧請について弦巻は断言し宮坂は否定的に書いた図会が図版を混同したとは思えない。歴史的に格上だと認識した弦巻の方を単独で描き、格下と見做した宮坂をその他の一つにしたと考えた方が素直である。 境内の前に川が描かれているが、それぞれ蛇崩川と烏山川があったので、どちらにもあてはまる。また、図会の時代すでに「セタガヤ」という名は現在の世田谷区世田谷(世田谷郷)を越えて広く用いられており、弦巻も宮坂も世田谷郷の隣村であった。 明治以降の神仏分離令と合祀令による権力の介入や駒沢町、世田谷町、世田谷区という地域の行政体の変遷がどう影響したかは調べ切れていない。しかし何といっても昭和27年という宗教の自由化が実現した時期に直線で1km程度しか離れてない神社で60年前まで使っていた名を宮坂が名乗ったのは理解し難い。 すでに合祀されていたとはいえ、同じ祭神の神社であるので分合祀の手順を踏んで氏子を統合して神社の力を大きくするのが本来の姿と思う。手順を踏もうとしたら弦巻神社が分祀を断ったのかもしれない。断って来ることを見越したうえで「断ったのだから」として名前を占奪したのか「名乗っても構わない」と弦巻から言質を得たのかも推測のまた推測である。 とにかく、宮坂で配っている「参詣の栞」には弦巻のことは一言も登場しない。このことは逆に両者に深い確執があったのではないかとか吉良氏から宮坂の神主に任ぜられて以降地域の有力者であり続けている家の家訓的戦略があったのではないかとの憶測さえも生む。 |