国家公務員共済組合は、川崎市の斡旋でこの場所を借地して都心の虎の門病院の分院ともいうべき稲田登戸病院を設けていた。病院の敷地は下の住宅地際までで、そこに元は水田の用水路だったような細い通路があって専修大学や明治大学の学生などが通り抜けていた。
 2008年に図会の名所探訪でこの地を訪れたときはその2年余り前に閉鎖した病院の解体工事が行われており、閉鎖区間となっている部分も通路もその工事車両用道路のようになっていて通行止めだった。
 十分に車が走れる状態になっているこの部分は当然川崎市の市道として供用されるべき部分である。閉鎖直後には若者に「心霊スポット」といわれるなどしていた病院は跡かたもなくなっており、現状は川崎市の道路引き取りを阻む事情だけが残っているように見える。最も一般的に考えられるのは、土地の権利者が有償引き取りを要求し、市が断っている場合である。 さまざまの土地開発で道路の無償引き取りをしてきた市は、その原則に加えて用水路という無主国有地の振替道路であることを主張しているであろう。一方地主は市が斡旋した病院は交通需要が大きかったが道路を要求しなかったではないか、しかも振替道路は他に使いようのない端切れ地で新しい道は土地の重要部分ではないかと主張しているのだろう。
 しかし、本文のように今でも組合がこの土地の管理者だということには借地契約が解約されていない可能性がある。病院廃止の表向きの理由は借地期限の到来と経営合理化で要ある。つまり借地料改定の合意ができなかったことだろうが、直接の引き金になったのは少し前に川崎市が要請した耐震改修に応じられなかったのが原因のように見える。 その交渉の過程で、生田緑地での教訓にもかかわらず市側が病院(組合)の何らかの権利を補償するような不用意な発言をし、組合のメンバーでもある司法行政関係者が法律ビジネスを作り出しているのだろうか。