ふたつとも、なんともはっきりしない。かえって往古へのロマンをかきたてくれると前向きにとらえることもできるが、史実とは決めつけ難い。 富士見塚は最近では、切通しの西側に江戸初期まで在ったと伝えられる祥応寺の建物(修道場?鐘楼?)の跡との説が有力なようだが、肝心の祥応寺の当時の状況についての客観的な資料が無いようである。 一方富士(見)塚というのは、一般には富士講の流行で設けられるようになったもので、江戸中期からのものである。そしてこの地域には富士講が組まれていたとの資料は無いし、浅間神社も無い。 では、なぜ江戸末期にこの名が付いていたのだろうか。だれでも思うのは富士山が良く見えると言うことだが、およそこの辺では平地からも富士山は見え、それ故に「富士南」という方位用語まで存在する。わざわざ塚を築いて富士山を眺める必要は殆どない。そしてこの場所は当時も含め、よほどまめに塚の周囲の木を伐採しないと富士は見にくい。 有力説が建物の基礎部としているのは上部が方形であるからでもある。私は、この塚(土塁)を横から見た形が台形で、富士山の形に似ているから富士見塚と呼ばれたのではないかと思う。 東を向けば(図会も西の眺望には触れていない)左右300度近くの眺望ができたこの地に、図会が記したように幽人騒客が来る名所だったことは確かだろう。 鎌倉街道のほうは、府中分梅で東に曲がらずに陣街道から真っ直ぐに恋が窪を目指せば、この位置を通っていて不思議はない。 しかし消極論は、 @ この切り通しは軍略上攻防の要所になってしまう程の狭さで、騎馬軍勢が整っていた鎌倉時代の主要道とは考えにくく、かつ多少の曲折はあっても現府中街道沿いに道を選びえたこと。 A 切通しの南の国分尼寺は室町時代当初に兵火で失われたので、鎌倉時代にその境内を貫いていたとは考えられないこと。 の二点から、祥応寺が移転した後で江戸時代に村人が勝手に造った道だろうとしている。 |