称名寺は、源氏の始祖六孫王が平将門と対峙したときの館跡と言われ、図会も触れている。
 六孫王の子孫の世良田親氏は南北朝末期の戦乱で破れて出家し、修行中に三河松平氏の庇護を受けて松平を名乗って定住し、碧南市の称名寺に墓がある。
 親氏から9代の間松平が定着していたが、家康になって徳川を名乗ったのは元来世良田は得川をも名乗っていたためと言われる。
 前置きが長くなったが、親氏の名と死亡直後の日付けが彫られた板碑が1801年にこちらの称名寺境内から掘り出され、三河出自の徳川家家系の信頼性にかかわる大問題になった。寺の偽造と決め付ける根拠もなく、非公開とすることだけが命じられた。
 図会の時代は板碑を見つけた住職から1代後くらいであったはずだが、図会はその事件には触れていない。