奈良時代前後の国司の任務として、任地内の神社の運営に配慮する必要があった。一方で八百万神々の中でも自分が最も重視している神の有り難さを示すことも必要だった。 しかし、広い任地のあちこちに散在している神社への綿密な対応は容易では無かったから身近なところに神社を集めることをした。こうして異なる祭神がいくつも同居している神社、すなわち総合神社が出来あがった。 単に寄せ集めて合祀するのではなく、バラバラに在った時より良い神事や祭りが行われてこそ遠方に本殿を持って行かれた氏子集団が納得するものであったから、神事や祭りに工夫が加えられ、総社の祭りは華やかなものになった。 この六所明神社の名は六つの祭神の存在を示しているが、実態は10を越える神々が合祀されている。既述した小野神社や坪宮も六所明神の末社の位置づけになっているが、当初の勧請の経緯から祭日にはトップの神官が訪れることになっていると図会は記している。 国司がいた時には、国司がそれぞれ参拝に出向いていたと考えられる。 |