平清盛の嫡孫の平惟盛は、保証された地位と美貌から時代の超スターであった。源平合戦で敗軍の将となって僧籍に入った。しかし巷間の人気は衰えず、全国を修行して歩き紀伊熊野で死んだとの説が最も支持されているようだが、さまざまな説が残って全国あちこちに墓がある。
 江戸時代でも平惟盛之墓への疑問は知識人の間では定着しており、図会の記述も疑問符付きであるし、雪旦も疑問に思ったから右の図版では「よーく調べて見よう」としゃがんでメモを取っている自らの姿を挿入している。
 言い伝えがほぼ真実でないことが判った現在、碑に文永(高幡不動の建物よりも古い)の文字が刻まれていることもあり、市の史跡としてきた日野市が扱い兼ねてそっと高幡不動にお願いしたものであろう。帰って高幡不動のサイトを見直したら、境内案内には載っているがなんのコメントもついていない。
 平成27年に再訪してみると周囲に植えられた若木は碑の高さを凌いで薄暗くなり「写真撮影禁止」の札が目立つばかりであった。