山岳や丘陵は平地から見て目標になるので、必ず名前がつけられる。しかしどの方位から見るかで、見える範囲、形状、印象等が異なり、広範囲で共通の名称になっているほうが少なかった。 多摩丘陵も、近代になって地図や地理学の普及で共通認識ができてきたので、この名が定着してきている。しかしその範囲については、北西端は国道20号線の走る谷筋とされているが、その北にある多摩御陵なども含むと誤解している人は多い。 南東端については、地形だけでは三浦半島まで起伏が続いているが、地質では円海山までは同質だが、京急逗子線からは先は異なっているようで、円海山までとされている。 しかし、私の知人でも「多摩丘陵の中に住んでいる」と言う人は川崎市多摩区までで、横浜市内になると殆どいない。 図会は、小仏の峰から神奈川までを都筑の岳とし、百里あまり続く故に つゞきとしている。一方関戸から末長までは向の岡でこちらは凡そ六里としている。向の岡については、あちこちの平地の視界を遮る岡の一般名称のようだから都筑の岳とするのが良いとも書いている。 玉の横山は都筑丘の一部と図会は書いている。万葉集に「・・・・・多麻能余許夜麻・・・・・」という防人となった夫への妻の歌で使われているのが最も古い。これは当時川止めリスクの少ない中上流が該当し、最下流でも本節南部と推測されている。 現在横浜市の区名の都筑は、明治の郡名が元と言うが、明治時代につまみ食いをしたことになる。向岡は、このシリーズでも本節川崎街道の交差点名と「登戸」で廃園になった遊園地名が多摩丘陵関連で登場する。玉衡之部では、根津神社付近の地名でもあったし、取り上げなかったが天権之部の八国山もそう呼ばれていたようだと図会は指摘している。 |