月桂寺は、明暦元年(1655年)に月桂院島子の菩提寺になったため、平安寺から名称を変えたと図会は記している。
 関東足利家は、正嫡の高基が北條早雲の口車に乗って父政氏及び弟義明と対立し、早雲の甥義氏に関東公方の立場を奪われた。義明の子は武田氏、次いで里見氏は庇護を受け下総の一隅で血を繋いでいた。
 足利義明の孫娘であった島子は、秀吉による関東平定の際に陣中に赴いて秀吉の妾になり、正統足利家の復活を頼み込んだ。秀吉は、混乱を最小限にするため、義氏の一人娘の氏姫を島子の弟国朝が娶ることを条件に国朝を足利家の正嫡として認めた。
 朝鮮出兵に向かう途中病死した国朝の後を継いだ弟頼氏は、関が原の戦いで徳川方の一員として活躍し、準親藩としての地位を得た。秀吉の死後仏門に入っていた島子はそんな経緯から関東十刹のひとつの平安寺に葬られ、寺は島子の院号に変更された。