昭和50年代は、オイルショック後の土地投機ブームの反動で不動産業界は低迷していた。福田、大平、鈴木と地味な首相の後に登場した中曽根首相は、建設業が景気刺激のトリガーであると信じていたから、その準備段階としての不動産業界の活性化のための施策を打ち出した。それが中曽根民活である。 中曽根民活は、土地取引規制の事実上の撤廃などによりその後のバブル経済の要因を作った罪が大きく、以下の事柄はその陰に隠れているが、以後の官僚のモラル低下に大きく作用した。 首相は、民活のモデル再開発プロジェクトに執着した。当時大赤字の国鉄体質の問題(トラックに顧客を奪われた貨物鉄道と労働運動の拠点としての国労)や遊休国有地の問題が議論されており、その関連でモデルプロジェクトの候補地選定が進められた。再開発にかかわっていた当時の建設省は、国鉄錦糸町駅の貨物ヤードの再開発を提案したが、首相は「そんな場末はダメだ」と取り合わなかった。 大蔵省の担当局長に、首相が示したメンバーを含む公務員住宅の有効利用策の専門家会議を設置させ、百人町にあった西戸山住宅の随意契約払い下げを提言させた。事務局である大蔵省は、前例になることを嫌って抵抗したが、「事前に東京都の都市計画として計画内容を決定してあること」「10年間は賃貸住宅とすること」「複数のディベロッパーが参加し、特定の会社に偏らない会社であること」を条件として妥協した。 首相お気に入りのシェークスピア劇場東京グローブ座を併設したプロジェクト自体は比較的順調に進み、バブルの真っ最中に次々と完成を見た。 その後東京グローブ座が経営難になってジャニーズ事務所に身売りをしたことは週刊誌の記事で見ていた。自転車で線路側の入り口にも行ってみたが、グローブ座の公演スケジュールにシェークスピアものは無かった。名称詐称にならないのだろうか。 当時の大蔵省の条件が守られたのかどうかの検証を財務省がした形跡はない。まちづくりの歴史に黒い霧が残っただけで首相が唱えた都市の文化的成熟は見られない。 西隣の破綻しそうな社会保険の中央総合病院を抱え、当時もにも増して百人町は「胡散臭い場所」になってしまっている。皮肉なことに首相が「場末」と言ったJR錦糸町駅北口は、東京グローブ座が破綻したころにアルカタウンとして再開発されて錦糸町の街のイメージを一新している。 |