建築研究所は、旧陸軍用地である現在の社会保険総合病院の西寄りにに昭和52年まであったが、筑波研究学園都市に移転して後は、毒ガス残留事件があった都立衛生研究所跡地と共にこの病院用地に編入されたり、建築研究所以上に人の出入りの無い独法の資料館などになっている。 私の祖叔父の一人がこの研究所にかかわりが有った。この祖叔父は陸軍大学校からフランスのポリテクニク大学に留学し、弾道学を修め、技術将校として終戦を迎えた。新分野への転進として建築の技術将校らと建築研究所の設立を企画した。焦土の復興のために新しい建築技術の研究開発が必要との主張は容認されるところとなり、百人町にあった旧陸軍技術研究所の施設を活用し、官庁営繕の研究部門と合体して昭和21年に戦災復興院の研究所として設立を見た。 設立2年後に新設された建設省の付属機関になったことは、内閣直属の研究所を目指していたメンバーには不本意であったようだ。祖叔父は自身が建築の分野で無かったのと、昭和21年秋の公職追放(パージ)の対象とされたのとからその後直接かかわることは無く、私が上京した時は糸川英夫とペンシルロケットの実験をしていた。 私が建設省に入ることになったのを報告に行ったときには、古い年賀状や名簿を引っ張り出して便箋に建築研究所関係者のリストを作り、「何かあったら面倒見させるから」と言って渡してくれた。その後仕事の関係で建築研究所を訪れることもあり、調べたが、20年以上経っていたためか、判明した人のすべてが研究所を離れて大学教授などになっていた。建研の筑波移転が決まった頃、祖叔父は死の床にあり、何の報告もできずに終わった。 |