流域の広い荒川沿岸に流域が広くない多摩川から水を送るのは、不自然である。だが、荒川流域のほうが農業用水などの水利権が大きく、大正から昭和にかけての工業発展を主因とする水需要への対応は、多摩川に依存して計画された(東京東部市街地での大きな負担のもと竣工したばかりの荒川放水路(現荒川)の必要性の前提を変えることはできなかったこともあるように思われる)。小河内ダム(奥多摩湖)もこの時期に計画された。 砧浄水場から妙法寺墓地西までの間で、砧小学校西の部分は水道管自体が直線でない可能性があるが、他は水道管が直線状の敷設されているようである。幹線道路や鉄道によって地上道路が直進横断ができない箇所は、砧小学校前(世田谷通り)、環状八号線交差部、桜上水駅東(京王帝都電鉄線)、大宮八幡宮前(方南通)の4ヶ所である。 妙法寺から北は水道管自体もうねっているようだが、大きく方向を変えることなく、板橋区大谷口にあった水道タンク目指している。 戦後昭和32年の小河内ダム完成以前に昭和初期の計画のままでは東京の水が不足することが予測されるようになった。このため、相模川や家光の時代に東遷させた利根川からの導水を進めるとともに、都内の給水システムを水系別(樹枝状)供給からネットワーク(網状)供給に変更した。 その結果、荒玉水道も現在では網の一部を構成しており、道路下の水はわき目も振らず北に向かって流れるのではなく、途中の接続している管と水をやり取したり、多摩川の水がピンチの時は逆に流れたりしている。 |