図会の筆者齋藤親子の住まいと神楽坂界隈とは直線距離で2〜2.5km、道を辿っても3km余りである。次の2点は、徒歩でも半日の間に確認できるにもかかわらず不十分である。
 1) 牛込城址を訪れたら、図会の200年以上前に移転してきて城址を境内とした光照寺を記述するのが自然であるが、記述していない。
 2) 軽子坂の名は「坂下に軽籠(カルコ)衆が居たので」という道標の記述に説得力がある。図会がこの程度のことを確認せず逢坂が軽子坂と書いたのは不思議である。
 1)のほうは、光照寺の応対が悪かったのではなかろうか。図会は、当時から著名だった所が記されていない一方、さりげなく店の名や売り物を描いている。つまり、訪れた先のサービスの良し悪しで主観を交えて編集している感がある。
 しかし、2)のほうはいかにも不思議である。

 津久土明神と氏子の船河原組は、1616年の外堀拡張で明神は八幡神社に、氏子は現JR飯田橋駅北部に移転させられた。その後、図会の時代までに津久戸(土)明神の氏子たちは現在の市谷船河原町に集団移転して現在も九段の築土神社の氏子である。 そして現JR飯田橋駅北部の目白通りの橋は、「船河原橋」である。
 図会の図版では「築土」しか使っていないが、現在「築土」と「筑土」は使い分けられていて、九段は「築土」で八幡神社と周辺の地名は「筑土」である。「筑土」は筑紫の土と言う意味で、宇佐八幡宮との関係が深いことを強調しているとのことである。
 図会の時代から現代に至る過程おいて、船河原組と彼らが最初に住んだ隣の揚げ場町の軽籠衆と(それぞれの子孫)の間にかなりの確執があったからである。町名主であった斎藤親子は近くの街のもめごとも熟知していたからこそあからさまに書かずに、読者に気付かせ(調べさせ)るよう書いたものと思われる。