感通寺の観音像の昭和52年というのは、非戦闘員10万人を殺戮した東京大空襲から33回忌の年である。33回忌は、世代替わりの期間に相当し、これ以降は他の先祖を含めての法要で済ませましょうという知恵でもある。一方で水に流すことが上手な日本人でもその怨念が整理され落ち着くのにこれだけの時間は必要だという期限でもある。 忠魂碑や慰霊碑をあちこちの寺社で見てきたが、何かあって数年以内の建立が多かった。石碑は長く残ることが前提だから一時の興奮で立てるのなく、最大限雨風に気持ちを晒したうえでなお残るものを表すという方法を採ったこの観音像には、宗派を超えた感銘を受けた。 私は太平洋戦争勃発の時は母の胎内にいた。結核のため徴兵検査で乙種合格だった父は、36才で敗戦の5ヶ月前に徴用され、訓練後九州海岸の本土決戦用の高射砲基地に配属になって1ヶ月ほどで終戦を迎えた。 輸送船に魚雷を受けてフィリピン海溝に沈んだ伯父以外親族の戦没者はいなかった。しかし、過半数は農家の子だった小学校の同級生にも誉れの家の子(参照:お山の杉の子*評)が何人か居た。 たまたま一番少ない人数のクラスだったので転校生の出入りは他のクラスより多く、国鉄職員の子を除き他はまだ都会の住まいが安定しておらず親戚に同居する戦災孤児や疎開学童だった。 家族への作文の授業で先生がいつもと違う気遣いをしていることは、年端の行かない私にも良く感じられた。 戦後生まれの後輩たちと意見交換をするようになって改めて後輩たちは親が戦死・戦没していないことを実感した。私の世代は、正義を語るにしても戦死・戦没を伴う話はつい憚るところがあったが、彼らはそれがなかった。 そう思っていたら、北山修の「戦争を知らない子供たち」が登場した。中途半端な開き直りと私が感じたこの歌はそれなりにヒットした。彼らの世代には、当時のおとな世代の言動が圧迫感となっていたのだろう。 感通寺の観音像は「戦争を知らない子供たち」から5・6年である。「戦争を知らない子供たち」はこの像と碑文を見ただろうか。 |