太平洋戦争敗戦後の日本の驚異的な復興と成長を見せたことの背景として、戦後すぐに制度化された農業協同組合と農地解放それに戦中(昭和17年)から戦後に継続された食糧管理制度を見逃すことはできない。 戦前、意識の高い農家だけの産業組合が各地に形成されていた。ところが戦争の深刻化に伴ってこれを全農家が参加する農業会への組み替えが推進された。 人口の大半である農家の組織化が国家の運営にとって重要だと考えられたからである。経済学者の多くが農業経済を研究し、教え子で優秀な人材を大蔵省や通産省よりもむしろ農林省に送り込んでいた。 彼らの優秀な頭脳で農業会のあるべき姿が企画立案されていた。敗戦に伴って翼賛会的な要素のあった農業会は、世界各国にある農業組合と同様の姿に発展させることが求められた。 太平洋戦争は農業を支えていた小作農を戦争にかり出すことになり、その見返りとしての自作農創設策が戦争中から検討されていたが具体化を見ないで敗戦を迎えた。しかし戦後の食糧難対策として農業生産性の向上策として急拠制度化されることになった。 たまたま占領軍GHQの指図で新たな国の施策が次々と講じられた時期なので、この二つもマッカーサーの指示と誤解されることが多い。もちろんGHQのチェックを経たが、彼らの主導ではない。彼らは農業組合は自治組織のひとつと言う程度の認識しかなかったし、 農地解放については社会主義的な発想ではないのかと疑ったと言われている。 食糧管理制度は、国による米の買い上げというよりも戦争に伴う供出という認識が大部分の農家の認識だった。戦後の継続は言うまでもなく食糧難対策であった。 これらの制度は、結果的に生産性の低い農業部門への再配分機能として世界に例を見ない成功を収めた。その中心的な役割を担ったのが、コングロマリット以上の経済体としての権能を与えられた農協であった。農地解放で飛躍的に組合員を増やした農協が相互扶助の領域を超えてさまざな業務を営んだのは、農業者の別称の百姓(百の姓<=仕事>)からも推察されるような「農業」の概念の多様さにもあるが、それらをすべて受け容れられる仕組みとして農業会を立案した経済官僚の名作でもある。 私の父は、私が高校生になったときに農協の組合長になったが、預けられている農業貯金の投融資が農業の内部では消化できずに「農家のため」と称して何にでも手を延ばさねばならない状態を危惧していた。 組合長を辞めてからはほっとしたのか一組合員に徹していた。晩年には生産と消費のアンバランスを促すような技術開発について盛んに私に質問したが、組合長時代に得られなった答を探しているような気がしていた。 農業の生産性向上や付加価値の増大は、世界各国の共通かつ終わりのない課題である。自然を相手とした農業は他の産業と比較して常に災害リスクを抱えていて土地生産性は格段に低い。条件の良い土地が生産性の高い産業用に転換することや安定した生活を望む人が農業を離脱することは自由経済化では至極合理的な流れである。 産業の高度化が農業を衰退させることは必然のであり、世界の国々の農業施策はその激変緩和策を講じているに過ぎないと言っても過言でない。紅衛兵騒ぎが一段落した頃、中共は日本の発展に不可欠だったはずの農業施策を調査に来た。 都市住民の何倍もの一票の重さを持ち、その結果としての所得の再配分が政策に反映されていることは彼らも予め認識していた。来日して農協に与えられていた経済体としての権限が米国の大企業ですら与えられていないものであり、 政権政党の農業政策の決定権は農協が持っていることを理解して、「共産党以外のものが国の施策を決めるシステムは参考にならない」と呟いて帰国した。逆説的だが、高度成長期にどこの国の政権も当面する農業対策を日本では農協に任せてその他の対策に集中していれば良かったのである。 ちょうどその頃、日本最強の農協と言われていたのが練馬農協(現在はJA練馬)で、現在の練馬春日町駅の東南400mに本所があった。練馬大根の産地だったこの地域の都市化の進展で組合員(厳密には元組合員または准組合員)からの預金が小さな地方銀行など足元にも及ばない水準になっていた。 全国的な農協組織内での練馬農協組合長の発言力は高まり、テレビにもたびたび登場し、総合月刊誌にも主張を述べていた。地域の計画的な市街化は、地価抑制になり農家の不公平感を助長するとして土地所有者の主体的な土地処分の自由を認めるべきだというものであった。 愛染院周辺の街は組合長の主張より前に開発された形跡もあるが、始めての人が入り込んだらどう抜けたらよいか判らないようなブロックが至る所にある。 |