この節の冒頭に書いたナンバタの由来が「難波田」であることは気づかれたと思う。戦国時代関東(扇谷)上杉家臣団の一人である金子六郎はこの地に封じられて所を名乗り、「難波田小太郎」として難波田氏の始祖となった。
 荒川の氾濫原であるこの地は、土壌は肥沃ながら水害の危険があることから「難」の字が付いた地名になっていた。しかし、江戸後期に縁起のよくない地名であるから水害が襲うと「南畑」に変更され、図会では「今南波田、或は南畑」と未定着だという認識を示している。当然北畑という地域は隣接していない。

 ところで、公園の名に「城」が使われて図会が使っている「館」は使っていない。城が単に拠点を表す場合もあろうが、現在は一般には高層構造物としてのイメージである。
 江戸時代に入って、弱小の大名でも現代の「城」に相当するものを築く余裕ができたが、それまでは多くの家臣団の拠点は見張り用や狼煙用の櫓を伴った平屋建ての館(やかた)であり、戦評定(軍法会議)は館で行われていた。
 資料館にある城模型もこの典型で、これだったら、平安時代の荘園主の家も「城」になってしまう。
 城模型の根拠は、難波田氏を滅亡させた北條氏に付いた上田氏がこの地に封じられてからの古文書のようだ。しかし、「難波田氏館趾」の石柱も併設されているから、市としては城は地名、居館は人名と使い分けているつもりかもしれない。解である。