野火留用水
平林寺が岩附城下からこの地に移されて30年ほど後に、平林寺内に墓がある松平伊豆守が15kmも離れた玉川用水からこの寺の境内に水路を引いたのが始まりで、その後18世紀にかけて現在の現在のルートが造られたことは図会にも書いてある。流量が小さくて本格的な農業用水路としては投資効果が期待できないほどのもので、玉川用水からの分水が途絶えてもたいした問題になっていなかった。しかし関越自動車道を設けた際には、水利権を維持するために専用の水路橋が造られ、東大和市の下水処理水が流れている。 野火留について図会は、伊勢物語や回国雑記を引用した後に、野火は火田(焼畑)農業の火であり、人家に及ばないよう設けた堤や監視のための塚だと言っている。伊勢物語の隠れた人の炙り出しとは違うことを認識させた上で、平林寺境内にある野火止塚(図会では九十九塚)と業平塚についても、後世の人が伊勢物語にかこつけたものとみなしている。 |