日蓮上人は、佐渡に流される途中久米川に宿泊し、翌日現在妙典寺(和光市)のある新倉に来た。新倉に居城を構えていた墨田五郎時光(日蓮の活動拠点現千葉県の出身)の妻が難産になっているのを聞いて上人自ら筆を執って曼荼羅と安産の護符をかいて時光に渡した。無事出産となった霊験に感銘した時光が後に妙顕寺を開基したということである。
 曼荼羅を描いた墨を溶いたのが曼荼羅渕の水で、護符を書いた墨を溶いたのが妙典寺子安池の水だというものである。曼荼羅の水のほうは、直線距離でも13km余りの久米川と新倉をどうやって運んだのか、日蓮がたまたま霊水として携えていたものを使ったのかは伝えられていない。
 時光はこれに感謝して戸田の妙顕寺を設立し、曼荼羅を納めたと言われている。