図会は、今みる所も三所ばかりありて 土人何れをも狭山ヶ池と称せりと、箱の池を含む狭山丘陵の山裾にできている池の総称だろうとしている。 池の名物はみくり(三稜)、あやめ(菖蒲)、ぬなは(蓴菜)だと書いて、枕草子の「池は狭山の池,、みくりといふ歌の・・・・・」に刺激されて詠まれた7首の和歌を引用している。 個人的には、みくり(三稜)という名は図会を読むまで知らなかった。子どもの頃いくらでも見かけた水田の雑草のひとつで、繊維と根付きが強くはびこっていた。3、40個の菱の実を小さくした実が玉になってつき、未熟なうちは触ると痛いほど稜の頂点がしっかりとくっついているが、結実するとちょっとした衝撃でバラバラになった。 「実栗」が語源で、三稜は催乳剤としての漢方薬の名前とのことで、これも始めての雑学である。 ところで山裾に小さな池がいくつもできる現象は、それほど古くない造山活動によるものと考えられる。造山活動で川の流れがせき止められた場合、せき止めた隆起が頑丈な岩盤であるならば、池の下流部に滝ができ、長い年月かけて岩盤を浸食し、穿入河道となって池が消滅するというプロセスをとる。せき止めたのが崩壊した山塊だったら日に日に川は土石を押し流し、池は短い期間で消滅する。 もともと浸蝕力の小さい川では、地下水として浸透する比率が高く池も小さい。このため池はすぐに沼沢地化し、やがて消滅する。 ここ狭山丘陵の造山活動は、富士の噴火で武蔵野台地が形成されてから生じたそれほどダイナミックなものではなかったから山は低く、主要な隆起ラインから外れて生じた隆起やあちこちで小さく崩れた山塊も小規模だったからできた複数の池(震生池)はいずれも小さく、短い期間に消滅したと推測される。 その小さな池が消滅する過程が有史以降で記録に残されたとすると、地理的にはこの造山活動はつい最近の事となるのだが・・・・・。 |