舟神輿が伝承されている神社はそう多くない。逆に通常の神輿を海に担ぎ入れるという祭事が伝承されているところもある。後者にはそれなりの由緒のあるものがあるが、総じて前者は後者より古いうえに由緒が不明なものだらけである。 前者に属するここの祭りにも、この日本列島に辿りついた海洋民族が遺したものではないかというロマンが語られている。 ミヌマと云う名称が「御沼」であろうことは、図会でもコメントしている。台地のミムロもミズの室(ムロ)ではないかと連想される。 史実としては、東京湾に流れ込んでいた古利根川の水を小貝川に流す「利根川東遷」で、地域の水が不足し、対策としてこの地に堰堤を築いての溜池が作られた。この溜池はたちまち堆積が進んで植生が進み「池」と言うよりは「沼」の状態になった。 そんな状態だったから吉宗の新田開発奨励でも、江戸周辺での格好の干拓候補になった。しかし供給不足気味の下流域に加え干拓での増加需要を加えると、「ミヌマに代わる」どころかそれ以上の水供給策が必要になった。 こうして吉宗の代の間(享保大飢饉より前)に現行田市北部の利根川からの見沼代用水が整備された。どのような検討があったか不明だが、東遷させた利根川の水を戻すのが理に適っており、名称はむしろ謙虚だとさえ言える。 現代の諫早干拓や八ッ場ダムの対策も、せめて見沼代用水並の自然との調和や迅速性への判断があればと思うのだが、工事利権を追求してきた政治家たちが捏ね繰りまわした結果世代を超えて課題が残されてしまった。 |