大宮市は、県庁こそないが埼玉県経済の中心都市だった。しかし市役所のある大宮駅東口は、道路の狭い密集市街地で、バスの円滑な発着もままならない状態だった。
 デパートの高島屋が昭和45年に進出してきたのをきっかけに地元商店主などが中心になって地域の再開発を計画した。以後現在に至るまで駅前から氷川参道までと市役所前の道路が広くなっただけで街の姿はそれほど変わっていない。
 当時東口の再開発反対派の一人が埼玉県庁の幹部であった。彼は反対運動の表には出なかったものの、県庁内での予算の計上や行政手続に圧力をかけて大宮市との関係でちぐはぐな行政姿勢をとらせ地域の行政不信を深めさせるという高等戦術を駆使し、県庁の担当部局も市も動きがとれなくなったことが最大の理由である。
 さいたま市に統合されて大宮駅の東側の市役所は区役所になり、市長や市会議員がこの地域を日常的に体験することはなくなった。人口上も浦和を凌いでいた大宮の前市長に打ち勝って前浦和市長が新市長になると、早速再開発の都市計画は廃止された。
 替わりに不法占拠の怪しげな店があってその裏には国鉄宿舎があるだけだった大宮駅の西側は旧与野市にかけての操車場と一体の大規模土地利用転換がなされ、埼玉県最大のアリーナ、国の関東支局、そして都心からの移転で飛躍的に人気を高めた鉄道博物館などが立地し、大宮駅は西口がメインというイメージになってきた。大宮駅東部の役割は急速に失われ、件の県庁幹部も自宅兼旅館を雑居ビルに建て替えたもののテナント確保に苦労しているようである。