この場所は、本郷台地の東の縁(古石神井川が削りけれなかった西岸)だった。
 幕府が寛永寺を整備する前から生活環境の良い本郷の台地は、大名の江戸屋敷があったし、江戸北西部からの主要路線である中山道も現本郷通り見帰り坂付近が実態上江戸への出入り口とされていた。ここから寛永寺にアクセスする需要は高く、幕府はこの崖の道を人馬の通りやすい道にするために崖を削った。そんな経緯からここが「湯島の切り通し坂」と呼ばれてきた。
 この切り通し工事でのトラブルの怨念なのか権力がかかわり過ぎたためなのかか、以後この場所での活動にはケチが付いてきた。
1.女犯→強請→殺人
 根生院は春日局に頼まれて家光が長谷寺(奈良)から住職を呼んで開山した寺である。当初は現神田鍛冶町にあり、湯島切通しへは綱吉の代にここにあった知足院の移転跡に移転させられた。
 知足院の本山は筑波山に空海が開いた修行中心の寺であった。その僧侶隆光が綱吉に取り入り、神田一橋に護持院を設けた(系列の寺を統合したらしい)際に知足院を神田に移し、跡地を根生院に引き取らせた。(一橋の護持院旧地は天枢之部に登場する)
 根生院の住職は代々幕府が任命していたにもかかわらず、丁度図会が出版された頃事件は起こった。時の住職が、人気者だった女義太夫の語り手(現代に置き換えれば中学生年齢の女性歌手)を囲い、これに気付いた元兄弟子が金品のゆすりを繰り返し、住職が寺の手下と共に元兄弟子を殺してしまうという事件が起こった。
 40年後の廃仏毀釈で根生院はあっさりと廃寺になった。しかし20年後現池之端2丁目で再興され、さらに14年後本文に書いたように移転した。
2.岩崎邸→キャノン機関
 根生院が廃寺になった時、裏に隣接していた越後高田藩榊原家は大政奉還でその財産管理もままならなくなっていた。岩崎家(三菱財閥)は不忍池を望むこの地に目を付け、両者を一体で引き取って邸宅とした。
 太平洋戦争で日本を占領した米国は、財閥解体を進めさせるとともにGHQ用地として岩崎邸を接収した。マッカーサーの帰国(1951年)後1年以上経って明らかになったのだが、ここは対ソ謀略機関が設けられていた。首領の名からキャノン機関と言われたが、もちろん正式な名前などなく、中国大陸で暗躍した旧帝国陸軍のメンバーをも取り込んでさまざまな闇の活動を行っていた。
 下山・三鷹・松川事件など旧国鉄に絡む事件は共産主義の浸透を防ぐために、共産党系の組織の仕業であるようにこの機関が画策したとの説は否定も肯定もされていない。結果的にこれらの事件をきっかけに共産党の伸長は止まり、日本は資本主義国家としてアメリカに次ぐ経済力を持つことができたのだから「ケチ」ではないかもしれない。
3.国有地化→総評マンションと池之端文化センター
 GHQ接収中に、ここの土地は国有地化(岩崎家から物納)された。GHQ解散後国は司法研修所を設けた。しかし都心の国有地として贅沢すぎる(遊休部分が多い)土地利用だったため、有効活用が追及された。
 オリンピック間近でマスコミの関心が高くなかった時期に払い下げが決まった。払い下げを受けたのは、非共産党系の労働組合が出資して設けた財団(払い下げを前提として数年前に設けられていた?)で、名目は労働者のための社会福祉施設の設置であった。
 しかし、労働金庫がバックにいたとはいえこの投資の回収見通しはきつく、払い下げ後文京区の部分(切り通坂寄り)をマンションとして分譲して資金繰りをすることになった(国有地払い下げの条件を強く求めない国の姿勢は天権之部と天枢之部でも紹介する)。こうして傾斜地の下(台東区部分)には「池之端文化センター」という労働者社会福祉施設(実態は結婚式場:既に第一次ベビーブーム世代の結婚ラッシュは去ろうとしていた)が立てられた。
 建築工事は藤和不動産(株)の親会社の(株)藤田組が行ったが、その後等価交換方式などを開発した藤和不動産がにとってマンション開発を手掛けるきっかけになった。当時不動産の社長だったのは、参院広島地方区から当選したばかりの藤田正明氏(後に参院議長)である。
 住宅の募集パンフでは、労働金庫融資が強調され、世上このマンションは「総評マンション」と呼ばれた。
 マンションは住宅政策上の観点から税の減免や低利融資の対象になっていたが、あまりの立地条件の良さから分譲後数年を経ずして多くが弁護士など個人コンサルタントの事務所や東京進出を目指す地方会社の営業所など非住宅に転用・転売された。大蔵省が住宅への優遇政策を見直し、税金に無関係な純粋銀行ローンにシフトするきっかけにもなった。
 バブル崩壊後(株)フジタ(藤田組から名称変更)は、民事再生法の手続き(この法律の立法目的は中小企業救済だった)を経て新会社としての(株)フジタになっている。藤和不動産(株)は、不動産業老舗の三菱地所(株)の傘下に入って生き延びようとしている。
 池之端文化センターは(財)中央労働福祉センターの直営であり、財団理事長は総評(後連合)のトップになりそこなった労連委員長が就任していた。池之端文化センター以外のホテルにも手を出したが、ともに平成に入って営業成績が悪化して労働金庫が救済できないほどの累積赤字となった。私がこのシリーズで最初に訪れた平成19年には前年に閉鎖した文化センターの解体工事中(工事用足場が強風で倒壊というトラブル直後)で、財団は解散手続きをしていた。
 平成22年の再訪でも工事囲いがあり、聞いたこともない会社の名前が書かれていた。財団は解散したらしくネット検索でも出てこない。
 国は、キャノン機関が使った旧岩崎邸洋館を含む部分をその後東京都に払い下げ、出先機関の合同庁舎(宿舎を含む)の部分だけが国有地として残っている。