穿入蛇行の地形は、わが国では長野県の松本市から長野市の間の犀川と宮崎県の都城市と宮崎市の間の大淀川が良く知られている。いずれも、蛇行した河道ができてからその中流域がゆっくりと隆起して形成されたとされている。 石神井川も大筋はそうだと考えられるが、原因となった隆起以前になぜ隅田川に向かわずに南転していたのかも考察しなければならない。 「この付近の地層が南転地点の東は硬く、南転地点の南が軟らかかった」と言えばその通りだろうが、ならば次の二つの疑問が生ずる。 Q1 その硬かった地層を穿ってまでの現在の流路はどうやってできたのか。 Q2 軟らかかった古石神井川での穿入はなぜできなかったか。 Q1に関しては、地下水脈(伏流水)が作用したと私は思う。前節の現金輪寺の北に名主の滝という断崖途中からの滝がある。また正受院の不動の滝も湧水型の滝であった。古石神井川流域の斜面にも外語大キャンパス、染井霊園、古河庭園などにはかつて豊富な湧水があった。 これらはいずれも石神井川の伏流水だろう。江戸時代に舟留となっていた堰付近には、有史以前他のどの滝にも負けない湧水型の滝があったと思う。この滝への伏流水に南転していた時代にはなかった力が加わって崖の浸食を進め、隅田川に向かう流れを本流にしたと推測する。 「南転していた時代になかった力」は、隆起による位置のエネルギーのほか、上流にできていた(隆起によって)かもしれない湖の水圧も考えられる。 Q2は難問で、隆起がゆっくりだったとすると当然穿入が生じたはずなので、ここでは隆起が急速で穿入できるだけの流れを保ち続けることができなかったと推測するしかない。 以上は穿入についての推測で、蛇行については別である。蛇行は、別ページの「堤防決壊」で説明したが、原則として緩やかな勾配のもとで形成される。穿入蛇行は既成の蛇行がそのまま穿入したものがあるほか、 隆起した地層がたまたま蛇行に相当する硬軟の組み合わせの場合もあるようである。後者の場合は湾曲部であっても両岸の崖はあまり変わらない高さと勾配だが、前者の場合は湾曲部の内側は緩傾斜で低く、外側は急傾斜で高い。ここのもみじ緑地などを見ると前者の特徴が出ている。つまり、一旦平坦蛇行が形成されてからの穿入である。 では蛇行の形成はいつなのかという問題が生ずる。以下のそれぞれにはそれぞれ説明できないところがある。 A 隅田川ルートができる前、南転していた時代に形成されていたとすると、古石神井川には蛇行の痕跡がない。 B 隅田川ルートができて穿入と蛇行が同時に進んだとすると、湾曲部の現地形と矛盾する。 C 隅田川ルートができてから穿入するまでの時間が長く、その間に蛇行ができたとすると、地表で蛇行を生ずるに必要な量の水を旧南転地点から滝までの間地下水で流すことは不可能である。 証拠は不十分ながら隆起が急速だったとして私なりに最適な推測をしてみると次のようになる。 @ 隆起によって石神井川の表流水は古石神井川へ流れ下ることが困難になった。また湧出した伏流水は、その地点が高くなったので浸食の力を強めた。 A 流下先を失った表流水は、地表に湖を形成し、伏流水への圧力を強めた。 B 現王子駅付近の伏流水の湧出浸食によって地表までの浸食が進んで地表水の流れができ、形成されていた湖の水が急速かつ大量に流出できるようになった。 C Bの渓谷は、元来硬い地層の伏流水底部のため、渓谷下端は滝となり上端(旧南転地点)から上流では穿入浸食は起こらず蛇行が形成された(あるい隆起前にあった蛇行が復活したは)。 D 渓谷下端の滝も徐々に穿入が進み、やがて渓谷上端での占有が始まると蛇行部での穿入も始まった。 E 隆起後、古石神井川流域は流量の少ない浸食力の小さい流域になったので、蛇行は生じなかった(あるいは隆起前にあった蛇行が富士山の火山灰堆積などにより消滅した)。 |