1980年代、赤羽駅から西ヶ丘サッカー場方面に抜ける道路整備の起爆剤にしたいとの都の要請を受けた日本住宅公団が駅前広場の整備に着手した。公団の私の友人は骨身を削って駅前広場予定地内のパチンコ屋との交渉に注力していた。後になって要請前に都が交渉して埒が開かないので嫌気して公団を引きずり出したことが判った。そしてその先は都が整備すると言った道路は四半世紀を経てそのままである。 この駅の東側も区画整理がおこなれたが、事業区域境で道路は狭くなっている。妥協に妥協を重ねる公的補償は、続いて行われるべき公共工事をより一層困難にするという見本になっている。 また、当時自民党の道路調査会長(現在は物故)の有力な支援者が西口の公団事業区域の先に財産を持っていて、会長が心配しているとのことで秘書から説明要請がありその公団事業を担当していた私が出向いた。公団の事業手法は、土地の権利を建物の権利に移行させる手法だったから、それだけで会長本人は理解を放棄し、秘書とたまたま上京していたという県会議員に説明して帰った。 この県議は、その後国政を目指して衆参双方で当落を繰り返し、平成22年現在民主党参議院議員になっている。今回再編に当って、ネットで調べたらパチンコ屋の団体との付き合いがあるようだ。当時すでに関係があったのかこの事業をきっかけに関係が出来たのかは不明である。 |