笠森稲荷は、図会を遡る60年ほど前江戸市中で知らぬ人の無いほど有名だった。門前の水茶屋の看板娘「笠森お仙」の錦絵が大ヒットしていたからである。 笠森稲荷への参詣は江戸の男たちにとって、現代ならばテレビのトップアイドルに相当する人気の彼女を一目見るための格好の口実であった。 さらに彼女が秘密裡に嫁いで姿を消したのも、1980年の山口百恵のきっぱりした引退に勝るとも劣らない衝撃だったため、その失踪をテーマとした歌舞伎の演目までその後作られていた。 この間使われた字は「笠森」であるが図会図版は「瘡守」で、記述は一切なく名所として扱っていない。また笠森稲荷から西400mの谷中小学校前の大円寺(本文右図参照)に「瘡守稲荷」があり、大正初期に永井荷風が寄稿した文でお仙と鈴木晴信の記念碑が立てられている。 さらにgooが公開している安政年間の(発行は嘉永年間)切絵図には大円寺に「カサモリイナリ」と書きこまれた鳥居マークがあるが、笠森稲荷も別当の福泉院も(長安寺も)記されていない。 しぶしぶ引き受けた風が荷風日記に残されているので、荷風は真偽諸説があることを承知していたとみられる。60年で確認しようがなくなっていたので図会は項立てを避け、あえて異なる字で後世に疑点を示したとも考えられる。 「笠森」「瘡守」とも現在東京周辺にいくつかずつ残されているが、ここ以外図会は取り上げていない。「瘡守」の字が示すように「できもの快癒の霊験」がと言うのだが、そのできものも疱瘡も梅毒も疥癬もということの上にご利益供与タイプなので稲荷神社どまりのようだ。 起源は藤原鎌足所縁で大阪府高槻市にある笠森神社(旧稲荷)で、江戸へは吉宗が勧請したというのだが、水茶屋の地主もお仙の嫁ぎ先も吉宗が紀州から連れてきた御庭番だったというからますます深い藪の中に迷い込むことになりそうである。 |