浅草寺は、わが国仏教史に名を残すような高僧が開基したものではなく、隅田川河口で漁網にかかった観音像を持ち込んだ猟師から相談を受けた土師氏である。その子が啓示を受けて父と二人の猟師を神として祀ったのが浅草神社と伝えられている。しかし、神社のサイトでは推古天皇の時代ではなく平安末期から鎌倉初期の権現信仰の隆盛の一環だろうと冷静に述べている。
 いずれにしても高天原とは関係ない極めて泥臭い、庶民的な神様であり、神社紋も格式ある流儀を離れ観音像を拾った漁網が干されている即物的なデザインである。王政復古の号令下日本神話をベースに日本の宗教を管理しようとして聖天信仰や八幡神社信仰に日本書紀の神帝をこじつけさせた明治政府にしても、手の打ちようのない祭神であったのである。
 極端に言えば反体制の神社なのであるが、そこは日本人の知恵で争いにせずに(金龍山浅草寺)其四の図幅の奥に描かれている富士権現(これも高天原や日本書紀とは無関係)を末社とすることを条件にして妥協してきたようだ(その取り扱いに今も苦慮している様子が浅草神社のサイトに書かれている)。
 また、観音像を仮安置した草刈童子らを祀った十社権現も図会には記され描かれているが、これが浅草神社に合祀されていて不思議はないのだが、神社のサイトも台東区の史料にも見当たらない。
 ところが、浅草神社の祭り、三社祭で神輿の上に乗って騒ぐのは神への冒涜だと平成19年の祭りでパトカーの拡声器ががなり立て、言うことを聞かなかった何人かを逮捕した。公務執行妨害だというのだが、警察行政はいつから宗教に介入するようになったのだろうか。神社に押しつけた二隋身をいずれは祭神にするという陸軍神社庁の意向があってそれを引きずっているのだろうか。
 境内の事故防止は神社の責任があり、神社が警察に依頼することもあるかもしれないが、その場合ですら宗教上の理由で警察が行動することは憲法上許されない。本来は公道上の混雑整理しか警察の任務は無いはずで、事故防止は警察が神社や祭りの実行組織に依頼するのが筋である。
 前段で書いたように、神社の伝統からすれば、庶民の祭りそのもの、つまり神々と打ち解けて騒ぐのが三社祭である。反社会的勢力排除論からの警察関与としても、その情報を最も持っているのは警察で、「○○組の△△、一般社会人に迷惑をかけるのは止めなさい」と拡声器でがなるべきだろう。