浅草寺もうでの目的は大人も子供も観音様半分、奥山半分ということだったようだ。 奥山とは、本堂から後ろの区域を指し、ここには土産物屋だけでなく大道芸、小屋掛けの演じものなどの遊び場があった。図会は忘れずに奥山を描き、それが門前側の仲見世とも一体であることを示している。 図会の浅草寺に関する記述の最後に、境内の土産物ベストテンが挙げられている。 「浅草海苔」「錦袋円」「浅草餅」「楊枝」「数珠」「五倍子」「茶屋」「酒中花」「香煎」「浮人形」である。 錦袋円は、当時人気の健康薬品で、その本店は玉衡之部で紹介されているので、次篇の上野公園の節で詳しく述べる。 五倍子は、お歯黒用染料として使われた。現在でも漢方薬店の片隅でみかける。 酒中花は、ヤマブキなどの木の蕊(ずい)を使って蓮の花や小鳥などに細工したもので、酒杯や煎茶も浮かべて風情を愉しんだ。 香煎は、麦こがしのこと。菓子があまりなかった戦後の農家育ちの私には懐かしい。なめている最中に笑って吹き出したりくしゃみをすると部屋中に飛び散って大変なことになった。 浮き人形は、現代はプラスチック製品ばかりだが、私が子供の頃はゴムかセルロイド、図会の時代には陶器やガラスで作っていたらしいから技術的には当時の方が高度だったと言える。 大道芸は「源水」(其四左端)と「芥の助」(其五右中央)が描かれている。源水は、図会の時代より100年以上前に独楽の大道芸を始めた松井源水の名で当時は是を受け継いだ独楽の芸を指すようになっていた。その60年ほど後にもう少し後に豆と徳利を使った手品を始めたのが東芥子之助で、これを受け継いだのを芥の助と言っていた。 小屋がけは、奥山にずらりと「楊弓」場が描かれている(其五左より奥)ほか「芝居」小屋(其五右手前、其三右中央)と「講釈」高座(其三右端)が描かれている。楊弓は平安末期からの的当ての遊びで、矢取り娘がサービスをしていた。客引き競争が激しく中には風俗営業化していたものもあったようだ。講釈は、説明するまでもないが、これが落語と講談に分化していった。 |