一般に幕府の直轄地は新政府にとって、新時代を示す施設の格好の設置場所であった。ここ蔵前は、引き続き国の米庫として大蔵省(当初は農林省ではなかった)が管理した。しかし明治10年代には同じ大蔵省の厩橋税務署が併設され、南端の新堀川河口の片町地区には東京職工学校(のち東京(高等)工業学校)が、北部には国策企業としての電燈会社(のち東京電力)が置かれた。
 東京工業大学の前身の高等工業学校はその所在地から「蔵前(工専)」と呼ばれ、卒業生はわが国産業界で活躍した。中でも大学に昇格(1929年)する9年前に卒業した土光敏夫氏は、現IHIや東芝が経営難に陥った際に立て直しに手腕を発揮し、経団連会長を務めた後中曽根政権下で臨時行政調査会長を務めて「増税なき財政再建」を柱とする民営化行革を提案した。
 私が社会に出て10年余りは、大学になる前の蔵前出身であることに誇りをもっている人にたびたび出会った。
 蔵前3丁目の信号を隅田川の方に入ったところにある浅草税務署と東京電力蔵前変電所はその名残であるが、それぞれ初期の場所から移転したり縮小している。その最大の原因は関東大震災であり、震災復興事業に国有地を提供したためである。
 震災復興での縮小に併せ食糧管理を農林省に移して一般国有財産となっていた大蔵省の土地は、戦費調達のため太平洋戦争が始まる直前に日本相撲協会に売り渡された。しかし、戦争の激化と敗戦、中でも旧国技館の軍事調達(風船爆弾の工場)と進駐米軍の接収(軍属のエンターテインエントホール)で大相撲の興行収益は落ち込み、新国技館の建設は棚上げ状態になってしまった。そのことはかえって新国技館の早期建設の必要性を高めることになり、駐留米軍の理解も得て米軍基地の余剰資材を得て、「もはや戦後ではない」と経済白書が書くより早く昭和29年に竣工した。
 その蔵前国技館は、土光臨調の国鉄改革のモデルになった両国操車場跡地の国技館が出来て東京都に売られて下水処理場になった。かつて東京高等工業学校の代名詞だった「蔵前」は、私の世代では大相撲であるがそれももはや風化している。