侠客の幡随院長兵衛は、町方奴として権力をかさに着た崩れ旗本との対決が、江戸時代から芝居や講談の演目になっていた。
明治になって歌舞伎の「極付幡随院長兵衛」がヒットし、その後ラジオ演芸の浪曲の演目としても定番になり、昭和10年生まれくらいまでの世代は寺のことは知らなくてもこの侠客の名は知っていた。
本来の姓は「塚本」、長兵衛の墓は湯島からはかなり離れた源空寺に(図会は記しても描いてもいない)にある。芝居で評判になってから建立されたものだろう。(上野に住んでいたものとして、一度コメントしていたものを修正) 図会は幡随意院と丁寧に書いている。しかし、小金井移転前から寺も「意」を省略していたようだ。 |