飛鳥社の絵のキャプションには「小塚原天王宮」と並べて描かれている。 小塚原は、江戸時代の刑場としての知名度が高い。しかし、地名の源はこの神社の中心にある塚である。 図会が紹介してる神社のいわれでは、叡山の僧黒珍が来た折りに、この塚から毎夜瑞光が発せられ、荊(いばら)の生えた石の上に、素盞雄命の和魂と事代主命が降臨した。 二神を祀るこの神社は黒珍がここに設けた。となっている。 しかし、わざわざ(素盞雄命の)和魂としているのは、素盞雄命が仏教の守護神牛頭天王を置き換えたものであることを示している。それどころか、この塚は上古の荒墓だろうと書いている。瑞光石は石棺の蓋だろうと私も思う。 日本人が長い歴史の中で形成した宗教観である神仏習合の懐の広さ・深さについて、ちょっとした町奉行である齋藤長秋が十分に理解できていたことを表している。後に岩倉具視らが押しつけた神仏分離の発想の貧しさと比較すると、江戸時代の日本人の文化的哲学的成熟度の高さが判る。 ところで、この周辺に「瑞光」の名の付いた小学校がある。明治20年創立で人口増に伴ってナンバースクール化したが、その名のいわれを皇国史観一辺倒の中でどうやって説明してきたのだろうか。不思議である。 なお、本文に書かなかったが、図会が紹介している別当の荊石山神翁寺は、描か(キャプションさ)れてもおらず、痕跡も見当たらない。境内の一角に別当の住まいがあって社務所代わり過ぎなかったのかもしれない。 |