行基の時代(8世紀初期)この地(足立郡)に足立長者が居り、遅く生まれ姫に何人もの侍女を付けるなどして大切に育てていた。
 「足立姫」と呼ばれて村人の高い評判になっていたところ、川上(豊島郡)の実力者豊島氏から輿入れが申し出られた。仏の道に傾いていた姫は婚礼の準備が整うに伴って憂いを深くし、ついに川に身を投げ何人かの侍女が後を追った。
 娘の気持ちを追慕して修行していた長者に僧行基が訪れることが啓示され、長者は行基に阿弥陀像を彫ってもらい、娘の願いの成就を託した。
 図会は、この話が六阿弥陀それぞれに伝えられているものの、足立長者と豊島氏が入れ替わっていたり、藤原氏の係累が登場したり一旦嫁がせているなど話が一貫していないことから未詳としている。
 なお、六阿弥陀をそれぞれに本尊とした寺は、いずれも図会に収録されている次の6寺である。
 西福寺(玉衡之部)、延命寺(開陽之部)、無量寺(玉衡之部)、与楽寺(玉衡之部)、常楽院(開陽之部:現在は天キ之部の地域に移転)、常光寺(揺光之部)
 余木で創られた阿弥陀像という性翁寺は、延命寺と同じ言い伝えになっている。
  さて、延命寺だが、明治になって同一宗派で格上の恵明寺と合併した。理由は不明だが、廃仏毀釈運動の中檀家数の減少や住職の兼務などの経営的な理由ではなかったろうか。境内は、現在の江北橋の上流の恵明寺と下流の延命寺とに分かれており、別院扱いだったようだ。
 荒川放水路工事で両境内とも主要部分を取られ、上流部は旧地から東へ300mほどの現代の恵明寺の場所に移転したが、下流部がどこへ移転したのかは手がかりがなく調べきれていない。
 図会は、500m余り離れた隅田川右岸の十二天森(本節で訪問)を記しているが、その別当だった「船方山延命寺」については触れていない。六阿弥陀第二番の延命寺は三号が「甘露山」であるし、開基も500年以上の開きがあり同じ名前の別の寺である。
 昭和28年に合併を解いて独立したという恵明寺を紹介しているサイトがあったので、延命寺のことなどを寺に尋ねようと思ったが同じ地域の性翁寺ともども固く門を閉ざしており、そのままになっている。